狸穴からの眺め

ついったで喋るにはちょっと重い話とか

ミサとはこんなものだった(私の場合)

おばちゃんから「ミサは初めて?」とか話し掛けられて、
受け答えしているうちに始まりの時間。
というわけでミサ体験してきたわけだけれど。

ミサってどんなものなの?っていうところを(ノンクリスチャンの視点から)まとめると、

1)あっちゃこっちゃとご本やら冊子やらを開かなきゃいかんので非常に忙しい。
 信徒の皆さんは大体のページを把握してあるからそう難しく感じないんだろうけど、
 新入りには「周りのレベルに付いていけない劣った自分」を見せつけられるようで辛い。
 私は、もうご本のページをめくったり、文章を読み上げたりすることは諦めました。

2)暗黙の了解的に決まったセリフ、決まった受け答えが多くて言えない私置いてきぼり感半端ない。
 信徒さんのセリフって結構多いのね。「また司祭と共に」とか「神に感謝」とか「アーメン」とか。
 色々あるけど、神父さんのセリフが変われば別パターンのセリフで返さないといけなかったりするし。
 おばちゃんは「慣れよ〜、慣れww」って言ってたけど、それは慣れるくらい通わないと掴めんわけで
 その前に心折れる人がおると思うで…。置いてきぼりを食らうということは不安を感じるわけでな…。

3)歌多いな…。
 楽譜読めんし音追えん(音痴)…よって苦痛。
 女性が多いし皆さんハイトーンを普通に歌ってるけど、私にはその音階出せませんから〜!
 私は、もう歌うことを諦めm(略
 声楽家にクリスチャンが多い(ような気がするだけ?)のは、歌う環境で育ったからなのかな〜とか思ったりする。

4)「神に感謝」って言う辺りでムズ痒いというか「うぅ私にはこのタイプは合わないみたい」という思いが最高潮に達す。
 感謝って体言止めされているので、どうしても自分には「はいここ感謝しないといけないタイミングです」みたいな感じで受け取ってしまう。
 台本に書かれた(笑)みたいな。はいここ笑どころですんで、みたいな。
 幼稚園のお昼の時間みたいに「天のお父様、今日も美味しいご飯を感謝します」くらいの意味なんだろうけど…。
 あと、「ありがとう」は言い慣れてるけど「感謝」って感謝するのは言い慣れないからなのかな??何だかムズ痒い。

5)聖体拝領を見てて「あれ?神の下にすべての人間は平等ではないのかな?」とか思ったり。
 (未受洗者はホスチアを受け取れないので、教会が人間を受洗者とそれ以外に区分しているように感じた)

6)神父さんの位置付けがよく分からない。
 教義を勉強してて、分かんないところは教えてくれるおじさん(たまにお兄さんだったりするけど)という以上の扱い?
 実は神父さんからプレゼントをもらったんだけど、「祝福を」ということで手を翳して何か念を込める的なことをされてたのよね。
 あれは一体何なんだろうか。ハンドパワー的な力を持っているという風に見ちゃうんだけど間違い?…だよね多分。

7)ベールを被ってる女性とそうでない女性がいるんだけど、あれ何が違うの?
 未婚の女性がベールを被るのかな?って思ったけど、未婚でも被ってない人もいるし、何が違うのかしら。

正直なところ、アウェー感半端なかった…。

聖体拝領については、おばちゃんから
「洗礼を受けてない人は聖体を頂けないけど、神父様から祝福を受けることはできるのよ」って言われたんだけど、今回はご辞退させて頂いた。
祝福を受ける=頭ぽんぽんされる、っていうのは神戸で体験したから分かるんだけど、あれにはどういう意味があるんだろうか。
意味分からんで祝福?とやら?を受けちゃったら失礼に当たらないかな?とか色々思った末の今回の判断。

受洗済の人らは、真っ白くて薄いえびせんみたいなやつを受け取って食べていた。なるほどアレがキリストの身体(の象徴)なのだなと。
味が気になるけど、未受洗者は貰えないんだもんな〜残念。多分無味か、小麦粉の味なんだろうな、と勝手に想像している。
ホスチアは教会の自家製なんだろうか?それともホスチアメーカーとかってあって買うんだろうか?
クリスチャンでないと製造できなかったりするんだろうか?と興味は尽きない。

おばちゃんとか神父さんのお話の中でも出てきたんだけど「恵み」って何ぞや?とか「祝福」って何ぞや?とか
一般的な日本語の字面での意味は分かるんだけど、キリスト教での(カトリックでの?)意味がピンと来ない。
誤解を覚悟でいうと、同じ言葉を使っているようでいて話が通じない相手、みたいなちょっとの恐怖感を覚える。
新入りがイメージできるレベルまで具体的に説明しようと思えばできるのかもしれないけど、
コミュニティーの中の人同士の交流ではそんな必要は無いんだろう。

カトリックに限らず、信仰を意識しているものはその教派単位でのコミュニティー意識が非常に強い。
遠隔地でも同教派の聖職者同士で頻繁に交流していたり、信徒の集まりでの交流があったりする。
だけど、コミュニティー意識が強固であればあるほど、新入り(信仰を意識していなかった者)にとっては敷居が高く感じる。
「この教義を受け入れて信仰する(つもりである)」ことがコミュニティの中で交流できる要件になっているように感じるんだな。

幼いころに少しキリスト教に親しむ機会があった私ですらこのテイタラク。うう情けなや。

さて、というわけで教会へ入ってミサ体験をする分には皆さんウエルカムな雰囲気でありました。
ただ、体験したことで疎外感を覚えて、来なくなる人は居るんだろうな〜というのが感想。
私の場合は、疎外感は正直ある。けど知らない世界を知るのは楽しい。テストのない勉強は好きだからね。
好奇心の方が勝ってるから、気が向いたら遊びに(というとアレだけど)行ってみようかな〜と。
勿論カトリック教会だけに遊びに行くわけではなくて、神社行って神職さんと話もするし、
お寺行って座禅組んだりもするし、モスク行って「コーランのここがピンと来ないんだけど〜」って話したりもするけどね。

あと、神戸でも今回の教会でも、飛び込んできた新人には、急遽前に出ての自己紹介を求められた。
神戸では、どこから来たとか名前とか、あと実はカトリックの教会にお邪魔したのは初めてなんです、って自己紹介をしたんだけど
今回は自己紹介を求められる直前に亡くなった方のお話をされてて、涙腺激ゆるの私は貰い泣きで顔が汁っぽかったので辞退。
なんてこったいめっちゃ恥ずかしい。

神戸の某プロテスタント教会では入口で「自己紹介をお願いしてもよろしいですか?」って訊かれて
「すみませんそういうのはちょっと…」「ではお名前だけこちらからご紹介させてもらえませんか?」「それなら…」って会話があったので
カトリック教会さんもその方向で何とかお願いしたいところ。教派は関係ないのかもしれんけど。
緊張しいには、興味津々で見つめられる中自己紹介をするのは、いじめか!ってくらいにしんどかったりするのだ。
何とか自己紹介を終えたとしても、「うわああ至らんことを言うてしもうた!」とか思った日には、
もう二度とその教会に顔を出す気を失ってしまうのでね。