読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狸穴からの眺め

ついったで喋るにはちょっと重い話とか

パンが肉なわけないだろ錬金術かよ

煽り文句みたいな表題になってしまったけれど。

暇だったので(というのもなんだけど)勉強会にも頭を突っ込んできました!
テーマは「ミサについて」。
ミサ体験をして疑問点がどっさりある私にはピッタリ!やったぜ!

内容としては、ミサの構成とか、ここでこういうことをするよとか
形の話がメインだったんだけれども、私が知りたいのはもっとナゼナニの部分。
講義の後に談話会みたいになったので、ちょっと神父さんに訊いてみた。

「何で未受洗者は聖体拝領できないんですか?」
アメリカでホストファミリーとバプテスト教会に通ってたときは
洗礼受けてる受けてないに関わらず、一口大にカットされたパン(=ホスチアとかホスティアとか呼ぶやつ)を
皆が貰えていたんだな〜。
そっちに慣れてたので「神の下に平等(の筈)なのに、区別するのは何で?カトリックは独特な考え方してんの?」って、そこが気になったのです。

神父さんの回答によると「ミサの儀式の中で、パンがイエス・キリストの身体になる」らしい…。
ほんで、そこんとこ理解して信じてる人だけが貰えると。信じてない人にあげると神様に失礼でしょ的な理解で合ってる?

でな?!私としては?!いや!?ちょっと!?意味分からないんですけど!?
だってあれどう見てもパン(っていうか白いえびせん)じゃん!?
ミサの最中にも神父さんが「パリッ…」って割ってたりするやん!?でも肉(つーか身体)なんだって。
だけど勉強会に来られてた信徒の方との話の中でもホスチアの味について「どこそこはここより香ばしい」とか言われてて、
えっ?!その時点で肉って思ってないんじゃないの!?待って!?参照エラー起こすから待って!?
…ってなるわけです。

プロテスタントでは、ホスチアはイエス・キリスト「の象徴」で、イエス様の言動とかお気持ちを思いながら頂きましょうね〜みたいな、
そんなノリだった(ような気がする、中学の時の話だから記憶も当時の英語力も怪しい)んだけど、
カトリックではホスチア=肉…。
カトリック語はわけわからんぞ…ということで、色々考察してみますです。

毒親持ちにはキリスト教は眩しすぎる

実家は九州の片田舎。
父親九州男児の悪いところを煮詰めたような男であり、
母親は、まぁじっと我慢の子であった…みたいな人で、だけど爆発する前に私に愚痴ることで発散していたタイプ。

あんまり毒親エピソードを書いてもただの被虐自慢になってしまうし
思い出すだけで胸糞悪くなるし涙出そうになるからさらっと流すけど、何か悪い事をしたとかじゃなくて
親同士の仲が悪い隣家の同級生と遊んだというだけで殴られる蹴られる家を締め出されるくらいはされたし、
稼ぎなければ発言権無し的な家庭だったので、意見を言おうとすると
「だいの金で食わしてもらいよっと思うとっとか!」って怒鳴られてたし
大学には行かせてもらったけど「○○学部じゃなかなら学費は出さん」って言われたし
就職も九州内という親の希望に反したら「おめでとう」も言われなかったし
というか母からは「男産まなくてすみませんでしたねーーー!!!」とかヒス起こされたし
父からは「墓守はどがんすっと」「家はどがんすっと」って言われてるし、
まぁアレです、毒親の例のうち、性的虐待以外はたぶん一通りやってんじゃないかな。

こういう家庭に育つと、キリスト教のお話は眩しすぎる。

↓こういう風に捉えちゃうわけだな、うん。

まず、父は優しいものではなくて、ご機嫌を取らないといけない人。
酔っ払って気分良く居ると思ったら次の瞬間にビンタが飛んでくるものだ。
幸いにもビンタを免れることがあっても、「クサレが」とか暴言でメンタルやられる。

右の頬を打たれて左の頬を差し出したら「なんてかー!」って怒鳴られて
左の頬だけでなく全身ボコボコにされるのであって、
まぁなんだ、つまりアレか、「右の頬を打たれたら覚悟して死ね」的なアレか。

ひとり子を給う“ほどに”世人を愛されたっていうのも接続がしっくりこない。
子を寄越すのは自分が行くのが面倒臭いからではないのか。
なにか、ひとり子だったらそんなに大事にしてもらえるのか。私は兄弟が居るから大事にされなかったのか。

自分を愛するように貴方の隣人を愛せよと言われましても、自分のこと大嫌いですし…。

というわけで、キリスト教を全面的に受け入れられて信仰している人っていうのは
愛されて幸せに育ったんだろうなぁ、いいなぁ、羨ましいなぁ、と思います。
やっぱ幸せに育った人と私は考え方合わないんやろな、とも。

おばちゃんとか神父さんとかは「あなたの求める形ではなかったけど、それも愛なんだよ」
って言うけど、愛があれば殴る蹴るで血を流してる子供に「お父さんの言うこと聞かんけんよ」って言ったり
自家中毒になるくらいのストレスを与え続けたり、交友関係を自分の好き嫌いで制限したりできるんですね^^
って皮肉の1つや2つも心に湧いてくるってもんです。

キリスト教は毒親持ちを救わないのかしら。
このへんも、勉強してるうちに分かるようになると面白いな〜。

宗教のつまみ食いはお行儀が悪いのかどうなのか

ミサが終わった後は、隣に座ってたおばちゃんと、ちょっと話をした。

自分は救いを求めて教会に来たわけではないこと。
信仰はさておき、好奇心とかそういうので来たのであって
キリスト教とかカトリックの教えにはピンと来ない部分がちょいちょいあるということ。
同じように、仏教とか神道とかについても心で理解できない部分があるということ。
これ1本!という信仰の道を選んでいるわけではないので、失礼があったらごめんねという話。

無神論者というわけではなく、何かよく分からんけど神様とかそういうのは居るのかもね、という上で
何かそういう存在を色んな呼び方したり、表現が違ったりするだけで、
全部一緒のものを差してんじゃないのかな〜とか個人的には思っているということ。

そういう話の流れで、何でかよく覚えていないんだけど、おばちゃんのお陰で神父さんとお話をする機会を得た。
神父さんって結構忙しいらしいんだけど、たまたまその日は予定が空いていたそうで1時間くらいお時間を頂けたので
おばちゃんは「これきっと神様のお導きよ〜^^」って言ってたんだけど、
まぁともかく、おばちゃんに話したようなことをもう1回神父さんにも話したわけである。

で。今思えば初対面でなんちゅー突っ込んだ話をしたんだと頭を抱えるレベルなんだけども、
キリスト教にも神道にも仏教にもイスラム教にも、自分にとっては心に沁み込んでいくところとそうでないところがあって
どれか1本選ぶなんてことは難しいんですけど、やっぱりどれか選ばんと駄目なんですかね?と質問してしまった。

キリストを知らなくても、神の御旨に沿って生きていれば救われると説いているのでは、
だったらエッセンスは同じ(と自分が思っている)別の宗教とキリスト教が信仰心の中に混在していては駄目なんですか?と。

その神父さんはカトリック以外、というかキリスト教以外の聖職者ともお話する機会がちょいちょいあるらしく、
そういう交流の中で「この教義はうちの宗教でいうところのこういうのと似ているなぁ」とか言われたことはある、
というところまでは聞くことができた。
だけど、いつか1つの道を選ぶことになるという前提で話をされるので、そんなつもりも気配も無い私の心は混乱してしまった。

今思えば、自分のやり方を認めて欲しかったんだろうなぁとか思ったりする。
自信がない人間だから、誰かの後ろ盾というか、承認が欲しかったのかな。
そう考えたら、承認欲求拗らせすぎー!!
ずっと聞きたかったこととはいえ、いじわるな質問をしてしまったなぁ。

ミサとはこんなものだった(私の場合)

おばちゃんから「ミサは初めて?」とか話し掛けられて、
受け答えしているうちに始まりの時間。
というわけでミサ体験してきたわけだけれど。

ミサってどんなものなの?っていうところを(ノンクリスチャンの視点から)まとめると、

1)あっちゃこっちゃとご本やら冊子やらを開かなきゃいかんので非常に忙しい。
 信徒の皆さんは大体のページを把握してあるからそう難しく感じないんだろうけど、
 新入りには「周りのレベルに付いていけない劣った自分」を見せつけられるようで辛い。
 私は、もうご本のページをめくったり、文章を読み上げたりすることは諦めました。

2)暗黙の了解的に決まったセリフ、決まった受け答えが多くて言えない私置いてきぼり感半端ない。
 信徒さんのセリフって結構多いのね。「また司祭と共に」とか「神に感謝」とか「アーメン」とか。
 色々あるけど、神父さんのセリフが変われば別パターンのセリフで返さないといけなかったりするし。
 おばちゃんは「慣れよ〜、慣れww」って言ってたけど、それは慣れるくらい通わないと掴めんわけで
 その前に心折れる人がおると思うで…。置いてきぼりを食らうということは不安を感じるわけでな…。

3)歌多いな…。
 楽譜読めんし音追えん(音痴)…よって苦痛。
 女性が多いし皆さんハイトーンを普通に歌ってるけど、私にはその音階出せませんから〜!
 私は、もう歌うことを諦めm(略
 声楽家にクリスチャンが多い(ような気がするだけ?)のは、歌う環境で育ったからなのかな〜とか思ったりする。

4)「神に感謝」って言う辺りでムズ痒いというか「うぅ私にはこのタイプは合わないみたい」という思いが最高潮に達す。
 感謝って体言止めされているので、どうしても自分には「はいここ感謝しないといけないタイミングです」みたいな感じで受け取ってしまう。
 台本に書かれた(笑)みたいな。はいここ笑どころですんで、みたいな。
 幼稚園のお昼の時間みたいに「天のお父様、今日も美味しいご飯を感謝します」くらいの意味なんだろうけど…。
 あと、「ありがとう」は言い慣れてるけど「感謝」って感謝するのは言い慣れないからなのかな??何だかムズ痒い。

5)聖体拝領を見てて「あれ?神の下にすべての人間は平等ではないのかな?」とか思ったり。
 (未受洗者はホスチアを受け取れないので、教会が人間を受洗者とそれ以外に区分しているように感じた)

6)神父さんの位置付けがよく分からない。
 教義を勉強してて、分かんないところは教えてくれるおじさん(たまにお兄さんだったりするけど)という以上の扱い?
 実は神父さんからプレゼントをもらったんだけど、「祝福を」ということで手を翳して何か念を込める的なことをされてたのよね。
 あれは一体何なんだろうか。ハンドパワー的な力を持っているという風に見ちゃうんだけど間違い?…だよね多分。

7)ベールを被ってる女性とそうでない女性がいるんだけど、あれ何が違うの?
 未婚の女性がベールを被るのかな?って思ったけど、未婚でも被ってない人もいるし、何が違うのかしら。

正直なところ、アウェー感半端なかった…。

聖体拝領については、おばちゃんから
「洗礼を受けてない人は聖体を頂けないけど、神父様から祝福を受けることはできるのよ」って言われたんだけど、今回はご辞退させて頂いた。
祝福を受ける=頭ぽんぽんされる、っていうのは神戸で体験したから分かるんだけど、あれにはどういう意味があるんだろうか。
意味分からんで祝福?とやら?を受けちゃったら失礼に当たらないかな?とか色々思った末の今回の判断。

受洗済の人らは、真っ白くて薄いえびせんみたいなやつを受け取って食べていた。なるほどアレがキリストの身体(の象徴)なのだなと。
味が気になるけど、未受洗者は貰えないんだもんな〜残念。多分無味か、小麦粉の味なんだろうな、と勝手に想像している。
ホスチアは教会の自家製なんだろうか?それともホスチアメーカーとかってあって買うんだろうか?
クリスチャンでないと製造できなかったりするんだろうか?と興味は尽きない。

おばちゃんとか神父さんのお話の中でも出てきたんだけど「恵み」って何ぞや?とか「祝福」って何ぞや?とか
一般的な日本語の字面での意味は分かるんだけど、キリスト教での(カトリックでの?)意味がピンと来ない。
誤解を覚悟でいうと、同じ言葉を使っているようでいて話が通じない相手、みたいなちょっとの恐怖感を覚える。
新入りがイメージできるレベルまで具体的に説明しようと思えばできるのかもしれないけど、
コミュニティーの中の人同士の交流ではそんな必要は無いんだろう。

カトリックに限らず、信仰を意識しているものはその教派単位でのコミュニティー意識が非常に強い。
遠隔地でも同教派の聖職者同士で頻繁に交流していたり、信徒の集まりでの交流があったりする。
だけど、コミュニティー意識が強固であればあるほど、新入り(信仰を意識していなかった者)にとっては敷居が高く感じる。
「この教義を受け入れて信仰する(つもりである)」ことがコミュニティの中で交流できる要件になっているように感じるんだな。

幼いころに少しキリスト教に親しむ機会があった私ですらこのテイタラク。うう情けなや。

さて、というわけで教会へ入ってミサ体験をする分には皆さんウエルカムな雰囲気でありました。
ただ、体験したことで疎外感を覚えて、来なくなる人は居るんだろうな〜というのが感想。
私の場合は、疎外感は正直ある。けど知らない世界を知るのは楽しい。テストのない勉強は好きだからね。
好奇心の方が勝ってるから、気が向いたら遊びに(というとアレだけど)行ってみようかな〜と。
勿論カトリック教会だけに遊びに行くわけではなくて、神社行って神職さんと話もするし、
お寺行って座禅組んだりもするし、モスク行って「コーランのここがピンと来ないんだけど〜」って話したりもするけどね。

あと、神戸でも今回の教会でも、飛び込んできた新人には、急遽前に出ての自己紹介を求められた。
神戸では、どこから来たとか名前とか、あと実はカトリックの教会にお邪魔したのは初めてなんです、って自己紹介をしたんだけど
今回は自己紹介を求められる直前に亡くなった方のお話をされてて、涙腺激ゆるの私は貰い泣きで顔が汁っぽかったので辞退。
なんてこったいめっちゃ恥ずかしい。

神戸の某プロテスタント教会では入口で「自己紹介をお願いしてもよろしいですか?」って訊かれて
「すみませんそういうのはちょっと…」「ではお名前だけこちらからご紹介させてもらえませんか?」「それなら…」って会話があったので
カトリック教会さんもその方向で何とかお願いしたいところ。教派は関係ないのかもしれんけど。
緊張しいには、興味津々で見つめられる中自己紹介をするのは、いじめか!ってくらいにしんどかったりするのだ。
何とか自己紹介を終えたとしても、「うわああ至らんことを言うてしもうた!」とか思った日には、
もう二度とその教会に顔を出す気を失ってしまうのでね。

ごった煮信仰の者、教会へ行く

先日ちょっくら思い立って近所のカトリック教会に行ってきた。

地味な仏壇と神棚のある家で育ち、ルーテル幼稚園に通い、幸福の科学の絵本を読み聞かせられ、
多感な時期にホームステイしたアメリカでは日曜毎ににバプテスト教会に連れられた私である。

元々、宗教建築とか宗教施設内の清掃状況には興味があったんだけども
ここ2年くらい何かよく分からないけど宗教に関してご縁が押し寄せてきている。
正直ちょっと怖い。

宗教学を専攻しているムスリム女子と友達になって、
インドの宗教観とか恋愛観の濃く反映された映画を薦められてみたり、
何かポップス感あるイスラム音楽が送られてきたのでimee ooiの曲を紹介してみたり、
日本人の宗教観がピンと来ないから教えて!って言われて自分の宗教観について説明する羽目になったり
(普段全く意識してないので自分の宗教観を見つめ直す良い機会にはなったと思っている。
 ちなみにムスリム女子からは「うん理解できない世界があるのは分かった」って言われた笑)、
気色悪いくらい意味分からん流れで急遽伊勢神宮にお詣りして外玉垣南御門のご開門を見ることになったり、
神戸旅行でぷらぷらしてたらプロテスタントの教会とかカトリックの教会とかにご縁があって
日曜礼拝とかミサとかに出席させてもらえることになったり、
中見せてーって飛び込んだ神戸モスクではコーランの解釈について1時間半ほど話をする機会を得たり、
日本国内では1%以下しか居ないと言われるキリスト教徒(カトリック)の友達が、
宗教全く関係ない繋がりから短期間に2名もできたり。

ちなみに私は無神論者というわけではないけど、
「まぁいるのかもなぁ、よう知らんけど」という程度の信仰心を持っている。

初めて伊勢神宮に行こうとしたときなんかは、
(まぁお伊勢さんにはお呼ばれして行くものらしいんだけども)
普段三重ナンバーとか見ること皆無レベルの土地なのに、
新幹線の駅まで移動中に三重ナンバーのしかも後部ドアにババァーン!と
「伊勢乃国」って書いてあるトラックの後ろを

先導されるかのように延々と走ることになったりしたから

「不思議ねぇ」と思う。

こういう不思議現象に対して、
「お呼ばれ」とか「ご縁」とか「因果」とか「神様のお導き」とか、考え方によって言い方は色々あるけど
誰かの意思のようなものを感じるというのは、自分にとっては自然なことだった。

でだ。
その上で、まーよく分かんないけど近所のカトリック教会に飛び込むことになったのだ。
流れは今でもよく分かんない。というかあんまり覚えていない。
おばちゃんとちょっと話をしたと思ったら、あれよあれよという間に…。
気付いたら、にこにこしたおばちゃんに促されて、新人相手に話をする担当っぽいおばちゃんの横に座ることになった。